関係を築く、壊す

上手に意見がまとめられるかどうか、些か自信がない。
妻はノリカさんの昔からのファンである。私たちはノリカさんの地元に住んでいる。
子どもたちはヂンナイのネタを喜んでみている。ネタはともかく、私はあれが芸とは思わない。しかし、職場の元同僚はヂンナイのことを買っていた。子どもたちからも人気がある。私には理解できない何かの魅力を持っているのかも知れないと、漠然と思っていた。
私はノリカさんに聡明な女性という印象を抱いていた。その彼女が選んだパートナーとの破局が報じられている。私は辛い気持ちで居る。何かが壊れるのを目撃するのは辛い。
私は素晴らしい相手と出会い、結婚した。不満はない。今までに他の女性に心が動いたことはないし、数ヶ月後にむかえる17回目の結婚記念日までに、心が動く可能性もないだろう。可能性という言葉を使った場合に「無い」と言い切ることに不誠実さを感じる人が居るかも知れないが、そんなことはない。ことこの話題に関して、可能性を論ずることそのものが無意味だ。
様々な意味で、妻より条件の良い女性は多くいるだろう。その点は認める。ある女性と出会い、その人を妻に選ぶまでに、私たちには十分な時間があり、確固とした関係を築くことが出来た。
夫婦となった後も様々な出来事を通じて,私たちはさらに関係を深めた。私は妻との関係に十分満足していたから、他の女性と関わりを持つことは一切しなかった。こののちに出会う女性と、これ以上の関係を築くことは不可能と感じるからである。
素晴らしい出会いに続いて、関係を築いていく努力が必要なのだろう。その努力を怠れば、関係は簡単に壊れる。

変だ

晦日に家族で京都に出掛けた。阪急河原町から清水寺まで歩いた。三年坂を上がり、清水へ。手頃な散策コースと思う。
NHKが行く年来る年の中継準備をしていた。あちこちにやぐらが組まれて照明が取り付けられていた。カメラのクレーンも準備されていた。初めのうち、何のことか分からず面食らったが、全国に中継されるわけだ。
晦日清水寺の混み具合が想像つかなかった。どうせ誰も居ないだろうと高を括っていたが、結構な数の外国人観光客が居り、また、我々のような見物人も少なくなかった。高層ビルに見慣れた今となっては、清水の舞台から飛び降りても、そう簡単には死なないだろうと思う。しかし、京都市内が一望できる。絶景である。
清水の舞台には、今年の漢字掲示してあった。年末のニュースにもなった。
「変」は無いだろう。今年の漢字は「変」ですって、そりゃ無いよ。
なんか、がっくり来た。文字っていうのは訴えかけてくる。
今年は変でしたと。
なんかな。もちょっと別な何か、無かったのか。

初めまして★をクリックした

ヤフーブログには訪問者履歴というのがあって、別に表示させなくても良いのだが、大抵のブログでは表示させている。詳しいことは知らないけれど、多分ヤフーのidを持った人がログインした状態で閲覧すると履歴に残るようだ。並んでいる順序とか良くわからない。
とにかく、とあるヤフーブログの訪問者履歴に「初めまして★」があったので、クリックしてみた。
ヤフーのブログには開設日が表示されているが、僅か一日で1400余りのアクセスが記録されている。そこにも訪問者履歴が表示されていて、いろいろな人が訪れていることが分かる。アルファベット10文字に数字を組み合わせて、沢山のidを取得し、全く同じ内容をもった「初めまして★」というタイトルのブログが作られている。記事の内容は芸能人のヌード画像が流出したとか、そういう話題が幾つか並んでいる。子どもなら興味をもってクリックするのかも知れない。クリックしてジャンプした先に、何か自分にとって利益になる情報が有るとは到底思えないようなスパムブログであることは一目瞭然だ。ワンクリックサギらしいが、この手の何かは「初めまして★」に限らずウヨウヨといろいろなところにある。もっと手の込んだものもありそうだ。こんなもので騙される人が居るんだろうなぁ。つうか、何か良く分かんない。非常に下らない何かを見た思い。どうでも良いよこんなもの。ワンクリックサギとかいうより、ただのスパムと思うが、こんなものにいちいち警告を出すより、スパムは無視しようのひとことで十分だし、訪問者履歴を隠すとか、スパムトラックバックを削除するとか、そういった呼びかけの方が重要と思う。

巨大なキャンピングカーが抱える深刻な矛盾

夏休みの旅行中に、巨大なキャンピングカーを見かけた。
見た場所は小樽発舞鶴行きのフェリーの船倉の中。お盆休みが終わろうとしている頃だ。
そのフェリーはおそらくお盆の帰省のUターンラッシュに対応するため、トラックやトレーラーを乗せておらず、乗用車で埋まっていた。それらの小さなマイカーを威圧するようなぴかぴかのキャンピングカーが、私の車の数台後に停められていた。
心地よさそうなベッドを備えたキャンピングカーのオーナーが、果たしてこの混雑したフェリーの中で、このベッドよりも上等な部屋の鍵を手に入れたかどうか、いささか疑問だ。もしかすると二等の雑魚寝に甘んじているかも知れない。フェリーが出航した後は船倉に留まることは許されないから、豪華なキャンピングカーの寝室はムダになる。何という矛盾。しかし、さらに巨大な矛盾は、光り輝く白いボンネットの内側にある。
よく見ると、エンブレムはトヨタなのだ。V8 Hiluxのエンブレム。しかも左ハンドル。
トヨタが米国社の牙城を突き崩し、米国でトップに立つために投入した巨大なピックアップトラックを改造したキャンピングカーだったのだ。それにしても大きい。
日本でバブル絶頂の頃にデビューしたトヨタのV8が、米国のバブルの中でも蠢いていた。そして、図らずもアメリカンモーターカンパニーの息の根を止める手助けをし、やがて自らの首を絞めようとしている。何という矛盾。
ハイラックスV8改造逆輸入キャンピングカーの陰には僅かなガソリンを節約するために、大量の資源を使って開発されたハイブリッドカーが停まっている。トヨタは何のために車を売るのか。企業にとって、営業活動と社会貢献の折り合いをどう付けるつもりで居るのか。私には全く理解できなかった。

大地を走る

好きで走っていた。
汗だくになるのが好きだ。流れる景色を追うのが好きだ。
先行するランナーに追いすがるのが好きだ。一気に抜き去り、置き去りにする快感がよい。
ペースが上がったときの滑るような感覚が好きだ。追いすがってくるライバルとの駆け引きが楽しい。
別に勝ちたいわけじゃない。一等賞には興味がない。
楽しいから走っている。愛国心はあるが、走ることとは関係ない。私は私の喜びのために走る。国の名誉は気にしていない。
楽しみたいという人がいる。私も楽しみたい。楽しむためにやっている。
私が負けると腹を立てる人がいる。国の代表なのだから、責任があるという人がいる。メダルの色などという表現が嫌いだ。即物的で醜い。メダル獲得数という下らない数字の組み合わせに拘る人がいる。
誰が獲得競争をしていますか。私のはカウントしないで下さい。
オリンピックって何なんだろう。
私はこの国の国民だが、オリンピックではただのランナーだ。私の唯一の名誉は、次のスタートラインに向かう力を少し残してゴールすることだ。
だから、私にはあらゆる国家の名誉は関係ない。国家の名誉とは何だ。戦争の代わりに私は走っているのではない。主催国の名誉も関係ない。
私は自分のペースを守り、追いすがるライバルをけ落とし、ゴールに向かって突き進む。風が私の背中を押す。世界中の注目が私一人に集まる。スパートは早いほどよい。その分、私は長い間世界の注目を集めることになる。私は、自由を叫びながら走る。世の中の不自由な人々に自由を祈りながら走る。
実況アナウンサーは気がつくだろう。「彼は何か呟きながら走っているようですね」
スタジアムの巨大なモニターに私の姿が映し出される。私は呟きながら走り続ける。ゴールまで独走する。観衆もきっと気付くだろう。私が何を呟きながら走っているかを。

失うこと

私は何を失ったのだろう。あの悲しみは何だったのだろう。
期待、夢、子ども、幸運。
何を望んでいたのだろう。
初めての経験だった。私と妻は今までに4人の子を授かり、無事に産み、なんとか育ててきた。
勉強が苦手な子もいるし、我が儘な子もいる。薬を飲み続けている子もいる。
妻はもう出産を望まないといい、私もそれに同意した。最後の出産以来8年間、私たちは注意を払っていたし、それは上手くいっていた筈だ。
夢の中に現れた人が、妻の妊娠を告げたのだ。あなたの妻は身籠もった。
私は受け入れるしかないと悟り、妻を案じた。
少し時間が掛かったが、妻も気持ちを固めた。
私たちは将来を真剣に考え、生まれてくる子供のことを思った。初めてではない。8年が過ぎて、子どもたちがどのように育っていくか、おおよそ見当がついている。その様になるのだと思った。ただ、私たちがその頃よりいくらか年老いているだけで。
2週間後、赤ん坊は育っていないと告げられた。告げられたのは妻だ。
次の診察の時は、私も病院に行って、主治医に挨拶するつもりでいた。妻からメールが届いたが、何のことか分からなかった。
悲しいお知らせ。
悲しい。
どうしていいのか分からなかった。しばらく呆然としていた。理解できなかった。子どもは元気に育つと思いこんでいた。
妻を励まさなくてはならないと思い、早退した。
まぁ仕方がない。思い出した。こういうことは良くあることなのだ。私たちの身の上には今まで幸運にも起こらなかった。
実にありふれたことなのだ。
この2週間余りの期間で、私は妻と話をした。私は改めて、妻との関係を築きなおした。ほんの少しの誤解を修正し、忘れていたいくつかのことを思い出した。私たちは改めて夫婦となった。
子を授かり、子を失って私たちは夫婦であることを確かめた。
何を失ったのだろう。今でも分からない。
小さな細胞の塊が、私たちの生活から消えていった。
期待や記憶や、思いや。何だろう。
夫婦は同じことを案じ、悩み、思った。失った。
思い出し、記憶にとどめた。
問題を共有し、解決しようと協力し合った。
5番目の子は、ハナという名です。ハナを失い、ハナの想い出を手にした。
私たちは夫婦で、それはいつまでも終わらないと言うことを知った。

読者

このページに目を通す人は滅多にいない。
バイクの話題がいくらかあり、それに興味を持つ人が検索で訪れることがあるようだ。アンテナでチェックしている人が二人くらい。
私がたまに見る。たまに。用事があるときだけ。
それでも、私がこのページを維持する理由は。
何だろうな。のんびりしているから。
自分の言いたいことを好きに書く。私にとって、インターネットはそもそもそういったものだった。
アンテナやらブログやら、掲示板になにやらパーソナルな会員制のサイトやら。そういうものが蔓延って、インターネットは画一的になったようだ。何というか、同調圧力というか。同じような話題が何度も蒸し返され、偉い大学院の教授が大人げない醜態をさらしつつ、今日は幾つのアクセスがあったというようなことを書いて、インターネットは自分の回りに集る野次馬の数を、正確に数えてくれるサービスを提供している。
あぁ下らない。
神秘的な方がよい。
愛や自由や夢を語るのは、インターネットには似合わないようだ。
人々は、苦しいときに無口になるのだ。本当に言いたいことがあるときに、敢えてその様なことを書かないというメンタリティが私にはある。
空気を吸うように携帯電話をポケットから取り出す人々には分かるまい。
彼は犯行を予告したのではない。空気を吸おうとしてテンキーに指を滑らせたのだ。大脳皮質に緩衝作用がほとんど無くなっている。携帯かネットか、どちらかは分からないが、心象をとりあえずリモートに置いておく。それが全てだ。
便せんに手紙を書いたことのない人が、今後現れるだろう。こくごの時間に、先生作文を携帯で書いても良いですか、と、小学3年生が質問するだろう。原稿用紙に向かい、構想を練るようなことはもうあり得ない。とりあえず思い浮かんだ順に書き込んで、あとで気が向いたら推敲する。大脳皮質に留め置いて、組立直すことを経験せずに、対人関係を築こうとする。
人々が成熟するために用意された時間の大半は、ケータイネットワークの構築に費やされる。
一体この先に何が起こるのだろう。