読者

このページに目を通す人は滅多にいない。
バイクの話題がいくらかあり、それに興味を持つ人が検索で訪れることがあるようだ。アンテナでチェックしている人が二人くらい。
私がたまに見る。たまに。用事があるときだけ。
それでも、私がこのページを維持する理由は。
何だろうな。のんびりしているから。
自分の言いたいことを好きに書く。私にとって、インターネットはそもそもそういったものだった。
アンテナやらブログやら、掲示板になにやらパーソナルな会員制のサイトやら。そういうものが蔓延って、インターネットは画一的になったようだ。何というか、同調圧力というか。同じような話題が何度も蒸し返され、偉い大学院の教授が大人げない醜態をさらしつつ、今日は幾つのアクセスがあったというようなことを書いて、インターネットは自分の回りに集る野次馬の数を、正確に数えてくれるサービスを提供している。
あぁ下らない。
神秘的な方がよい。
愛や自由や夢を語るのは、インターネットには似合わないようだ。
人々は、苦しいときに無口になるのだ。本当に言いたいことがあるときに、敢えてその様なことを書かないというメンタリティが私にはある。
空気を吸うように携帯電話をポケットから取り出す人々には分かるまい。
彼は犯行を予告したのではない。空気を吸おうとしてテンキーに指を滑らせたのだ。大脳皮質に緩衝作用がほとんど無くなっている。携帯かネットか、どちらかは分からないが、心象をとりあえずリモートに置いておく。それが全てだ。
便せんに手紙を書いたことのない人が、今後現れるだろう。こくごの時間に、先生作文を携帯で書いても良いですか、と、小学3年生が質問するだろう。原稿用紙に向かい、構想を練るようなことはもうあり得ない。とりあえず思い浮かんだ順に書き込んで、あとで気が向いたら推敲する。大脳皮質に留め置いて、組立直すことを経験せずに、対人関係を築こうとする。
人々が成熟するために用意された時間の大半は、ケータイネットワークの構築に費やされる。
一体この先に何が起こるのだろう。