タスポ

子どもがタバコを吸うことの是非と大人がタバコを吸うことの是非。あるいは、吸いたい人がタバコを吸うことの是非、これらについて考えるのは別の機会とする。
タスポについて色々と説明してあるウエブページがある。目的は、タバコの自販機の利用を成人に限定することらしい。へえ。
電子マネーの機能も付いているが、タバコの自販機のみで使えるらしい。
タバコを買う以外に何の役にも立たないカードである。
それから、申込書、顔写真、保険証のコピーなどで郵送されてくる。申し込みは無料。
それから、カードに組み込まれたICチップを自販機に読み込ませるだけ。カードに顔写真が載るけれども、本人確認とは関係ないみたい。おかあさんの名前でカードを申し込んで使うことも出来るな。
ちょっといたずらでタバコを吸ってみる子どもの数は劇的に減ると思う。
まぁいいんじゃないか。それにしても、タバコの購入以外に使い途のないカードとは。こういう下らないことを考えついた人は莫迦じゃないか。
先日、コンビニの駐車場で娘とアイスクリームを食べていたら、親子連れがタバコ自販機の前に立った。お母ちゃんが息子にコインを渡し、カードをかざすように言った。お母ちゃんは自販機のボタンを押したら、タバコが出てきた。
初めて見たなぁ。お母ちゃんはタバコを手に取って、「あ、間違えた」と呟いて、コンビニの店内に入っていった。店員に交換を申し出たのだろう。
何かそういうほのぼのとした自販機だった。

みっともない看板

阪神タイガースの地元に住んでいる。タイガースは大変人気があって、ホームスタジアムはいつも満員だ。
タイガーズは給料も安めらしいし、きっと儲かっているに違いない。プロ野球チームの経営は地元に対する利益の還元を図るべきだと思う。多くのチームがホームタウンをチーム名に被せている。福岡、千葉、大阪(バッファローズ)、東北、埼玉、北海道、東京(スワローズ)、広島。
最も簡単な還元方法は地元の名前をチームに冠することだ。大阪ではない、西宮、若しくは兵庫だが。多分タイガースはやらないだろう。タイガースは地元との交流に全く興味がない。チームオーナーが興味をもつことは、スタジアムが満員になって、甲子園球場前駅に人があふれることだけだ。
だから、球場に地元の客が増えることを喜ばない。大阪か神戸か、もうじき阪神電鉄難波駅まで延伸して、近鉄と相互乗り入れになるから、奈良あたりから球場に客が集まると、オーナーとしては大変嬉しいのだろう。多分、奈良県民を西宮に呼び寄せる企画を計画するに違いない。
プロスポーツ球団が良い成績を収めるには、先ずは収支が釣り合う必要がある。十分な収入を上げて、選手の雇用条件を上げれば良い選手が集まりチームは強くなる。観衆の観戦環境を改善すれば、さらに客は集まる。
チームの収入は大きく3つに分けられる。入場料収入、グッズ売り上げのロイヤリティ、あとは放送権料だ。
タイガースはヘルメットに家電量販店のステッカーが貼ってある。その量販店に行くとタイガーズの応援歌がかかり、店員がユニホームのレプリカを着込んで商売をやっている。契約料はどれくらいなのだろう。
誇り高きプロチームがスポンサー料のために、神聖なユニフォームをステッカーで汚す。余り宜しくない。
交流戦が始まり、部分的にテレビ中継で見かけた。
テレビ画面を埋める赤い看板。住宅会社の看板が下品と感じた。宮城球場だから楽天だ。やり過ぎだ。
そう思っていたら、交流戦のスポンサーなのだ。
でも、やり過ぎだ。

ホワイトチョコレート

私が子どもの頃、ホワイトチョコレートが登場した。六花亭という北海道のお菓子屋が出して、そこのトレードマークのようになった。
チョコレートといえばカカオ豆が入っているはずだ。どうしてホワイトチョコレートは白いのだろう。白い何かでカカオ豆のような風味を出すことに成功したのだろうか。つまり、チョコレートでないものをチョコレートのような雰囲気に仕立て上げてそういう名前を付けたんだろうか。それとも、カカオ豆の成分から茶色い色を取り除くことに成功したんだろうか。
どっちにせよ、ホワイトチョコレートはかなり無理をした食べ物である。食べれば分かる。わざわざ白い方を積極的に選ぶ理由があるとしたら、それは珍しさだ。私はおいしいと思わない。ミントチョコと同じくらい、私にとって厄介な食べ物である。

タバコを吸う

どうして子どもがタバコを吸ってはいけないのだろう。
どうして子どもがタバコを吸うことを大人は制限するルールを決めたのだろう。
体に悪いからだろうか。体に悪いならどうして年齢の制限を設けたのだろう。子どもにだけ悪い筈はなく、大人にも悪いはずなのに、どうして子どもにだけ制限を設けたのだろう。
成長期だから。それでは、成長が済んだら体に悪いことはチャラにして良いのだろうか。むしろ、成長期ならどうして悪いのだろう。成長を妨げるからか。成長期の子どもたちに、夜遅くまで余り面白く無さそうな勉強をさせることに制限はないし、下らないテレビを見続けることにも制限はないし、夜通し下らないビデオゲームをしたり、ケータイいじったりマンガを読んだりすることには制限はないのに、どうしてタバコだけダメなんだろう。
どうしてタバコの当事者達は、あんなに卑屈なんだろう。あなたたちが作っている製品は、長い歴史に裏打ちされた人類の文化であると思う。ただ、煙たくてちょっと臭くて、灰が散らばって周りが汚れる程度のことなのに、どうしてそんなにタバコの関係者は卑屈な態度をとり続けるんだろう。どうして、喫煙者を攻撃する人たちはあんなに厚かましいんだろう。
子どもたちがタバコを吸うことくらい、認めてあげたらいいじゃないか。そんな下らないルールのために、多くの子どもたちが素行不良の汚名を着せられ、社会から排斥されている。
たかが喫煙のために。
たかが青少年にたばこを売らないようにするために、莫大な投資がなされて、下らない機械が作られて、喫煙者達の詳細な個人情報が収集されるのはなぜなんだろう。自販機を廃止すればよいだけの話しなのに、どうしてあんな面倒なことをやって、誰が莫大なもうけと利権を手に入れたんだろう。
いいじゃないか、たばこくらい吸ったって。

縦書きを所望する

年度が替わって職場を移った。普段はバイクだが、時々電車で通う。読書の時間が一日20分ほど。
20年前に手に入れた文庫本を読む。この頃のものに比べると文字が小さい。
漱石の「硝子戸の中」(新潮文庫
漱石の短い随筆集である。読みごたえがある。これくらいの長さはブログのエントリを連想させる。
三十四段

私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね」というから、「ああ遣った」と答えると、その男が「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれた。(中略)
「一体どんな事を講演なすったのですか」
私は席上で、彼のために又その講演の梗概を繰り返した。
「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないかしら」
「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」(中略)
自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断ったのである。だからそれを最後に引き受けたときの私の腹には、どうかして其所に集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。その希望が、「どうせ解りゃしません」という簡単な彼の一言で、美事に粉砕されてしまってみると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。

もう少し続くのだが、無遠慮なブックマークコメントに影響される漱石が読み取れる。
その後、別の学校で講演をしたときに、漱石は、

私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を降りる間際にこういった。
「多分誤解はないつもりですが、若し私の今御話したうちに、判然しない所があるなら、どうぞ私宅まで来て下さい。出来るだけ貴方がたに御納得の行くように説明して上げる積もりですから」
(中略)然しそれから四五日経って、3人の青年が私の書斎に這入って来たのは事実である。(中略)
私はこれ等三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明した積もりである。それが彼らにどれ程の利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。然しそれだけにしたところで私には満足なのである。「貴方の講演は解らなかったそうです」と云われたときよりも遥かに満足なのである。

つうわけで、筆者と読者の距離感、そして誰かの感想を意図せずに聞かされるときの筆者の困惑ぶりについて、述べられていて興味深い。後日談として、漱石の随筆を目にした高等工業の学生から、好意に充ちた手紙を受け取った話が書かれている。

何故一学生の云った事を、聴衆全体の意見として即断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を付加して、私の不明を謝し、併せて私の誤解を正してくれた人々の親切を有り難く思う旨を公にするのである。

という話で、ブックマークコメントとのつきあい方に、一つの指針を与えてくれるように感じた。
ところで、私がちょっと長めのブログエントリを見ると、「長いなぁ」とつぶやいて読む気が失せる理由の一つは、横書きだからののではないか。文庫本を読んで痛感した。
テキスト系のエントリには是非とも縦書きを実現してもらいたい。
縦書きを読みたい。