縦書きを所望する

年度が替わって職場を移った。普段はバイクだが、時々電車で通う。読書の時間が一日20分ほど。
20年前に手に入れた文庫本を読む。この頃のものに比べると文字が小さい。
漱石の「硝子戸の中」(新潮文庫
漱石の短い随筆集である。読みごたえがある。これくらいの長さはブログのエントリを連想させる。
三十四段

私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね」というから、「ああ遣った」と答えると、その男が「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれた。(中略)
「一体どんな事を講演なすったのですか」
私は席上で、彼のために又その講演の梗概を繰り返した。
「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないかしら」
「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」(中略)
自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断ったのである。だからそれを最後に引き受けたときの私の腹には、どうかして其所に集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。その希望が、「どうせ解りゃしません」という簡単な彼の一言で、美事に粉砕されてしまってみると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。

もう少し続くのだが、無遠慮なブックマークコメントに影響される漱石が読み取れる。
その後、別の学校で講演をしたときに、漱石は、

私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を降りる間際にこういった。
「多分誤解はないつもりですが、若し私の今御話したうちに、判然しない所があるなら、どうぞ私宅まで来て下さい。出来るだけ貴方がたに御納得の行くように説明して上げる積もりですから」
(中略)然しそれから四五日経って、3人の青年が私の書斎に這入って来たのは事実である。(中略)
私はこれ等三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明した積もりである。それが彼らにどれ程の利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。然しそれだけにしたところで私には満足なのである。「貴方の講演は解らなかったそうです」と云われたときよりも遥かに満足なのである。

つうわけで、筆者と読者の距離感、そして誰かの感想を意図せずに聞かされるときの筆者の困惑ぶりについて、述べられていて興味深い。後日談として、漱石の随筆を目にした高等工業の学生から、好意に充ちた手紙を受け取った話が書かれている。

何故一学生の云った事を、聴衆全体の意見として即断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を付加して、私の不明を謝し、併せて私の誤解を正してくれた人々の親切を有り難く思う旨を公にするのである。

という話で、ブックマークコメントとのつきあい方に、一つの指針を与えてくれるように感じた。
ところで、私がちょっと長めのブログエントリを見ると、「長いなぁ」とつぶやいて読む気が失せる理由の一つは、横書きだからののではないか。文庫本を読んで痛感した。
テキスト系のエントリには是非とも縦書きを実現してもらいたい。
縦書きを読みたい。