おめでとうということ

誰かに赤ちゃんが出来た、これは生まれたという意味ではなく、あくまで妊娠したという話しで、私は素直に「おめでとう」といいがたく感じる。

単純に、ご当人が嬉しく思っているかどうかの問題ではない。あら、あの人結婚していたっけとか、結局お父ちゃんは誰なのよ、というような話しやら、えぇ、何人目なの、とか、それって失敗しちゃったんじゃないのとか、そういう問題でない。

しかし、私はおめでとうというのをいつだって躊躇する。

それから長い時間を経て、母体は赤ん坊を育み、この世に生まれるまで、全く油断が出来ない。マタニティブルーという言葉がある。母親になる見込みの妊婦にとって、妊娠は素晴らしい経験ばかりとは言えない。

出産はかなり辛いが、刹那的だ。これは余り問題はないだろう。出産が済んだ直後、母親に成り立ての彼女に「おめでとう、ご苦労さん」というのに、私は全く躊躇しない。生まれてきた小さな赤ん坊に「やぁ、いらっしゃい。ようこそ。仲良くやろうじゃないか。」というのも、全く問題ない。

しかし、そのあと。赤ん坊たちはだいたい母親を苦しめる。親たちは子どもたちに苦しめられ続ける。親の思い通りになどならない。期待通りに成長する子どもは、何処かに異常を抱え込んでいるのかも知れない。健康で正常な発育に親たちは困惑するものらしい。

私の経験上言えるのはここまでだ。あと10年後には、もっと別の経験をしていることだろう。私の子どもが親になる。それが私にとってどういう気分になるものか、今のところは想像が付かない。

素晴らしいのだろうか?ならば、「おめでとう」なのだ。