コーヒー

初めてコーヒーを飲んだときのことを憶えている。

確か、中学一年の時だ。社宅で隣に住んでいたマサヒサくんのお姉さんが入れてくれた。ペーパーフィルターにお湯を注いでいた。

ネスカフェは飲んだことがあった。ホチキスやキャタピラと同様、この商標名は当時の私にはコーヒーそのものだった。ミルクと砂糖を溶かしたものに粉末のネスカフェを振りかけて、色を付けて飲むような感じだった。粉末コーヒーにはもっと上等な、ゴールドブレンドというのがあって、それは違いが分かる人が飲むもの。フリーズドライで粉末というより、顆粒状である。飲んだことはあったが、苦かった。

どうしてマサヒサくんのお姉さんが私たちにコーヒーを入れてくれたのかよく分からない。

ドリッパーにペーパーフィルターが差し込まれていて、その中にコーヒー豆が入っていた。挽いたコーヒー豆は、なんだか山盛りのゴールドブレンドのように見えた。

こんなにいっぱい!これは苦いに違いない。こんなに濃いゴールドブレンドはとてもじゃないが飲めそうにない。数分後、出された小さなコーヒーカップには、真っ黒でとても苦いもが入っていて、とても苦しみながら飲んだ覚えがある。

もう確かめようがないが、あのときペーパーフィルターの中にうずたかく入っていたのは、インスタントコーヒーではなく、ミルで砕かれたコーヒー豆だった筈だ。

マサヒサくんのお姉さんは、コーヒーの味のみならず、吉田拓郎井上陽水も教えてくれたし、ビートルズとの出会いもマサヒサくんの家だった。ずいぶん影響を受けている

その後、いろいろと事情があって私はコーヒーをよく飲むようになった。一人暮らしを始めた頃、大阪の水道水が不味くて飲めず、全部コーヒーにして飲んだ。それ以来、ほとんど毎日、コーヒーを飲んでいる。妻は私のために毎朝豆を挽いて、コーヒーを入れてくれる。私は妻の入れてくれるコーヒーで一日のスタートを切るが、その味には大いにばらつきがある。何しろ、妻はコーヒーを決して自分で飲もうとしない。自分で味わったことがないから、入れ加減が安定しない。

仕事を終えて帰宅すると、私は自分でコーヒーを入れる。先ずお湯を沸かし始めて、それからミルのスイッチを入れようとして、中にまだ粉が残っているのに気がついた。挽く必要ないなと思いつつ、粉をペーパーフィルタに移して驚いた。インスタントコーヒーが混ざっているように見える。思わず三十年あまり前に、隣の社宅で初めてコーヒーを飲んだときの不思議な思い出がよみがえった。とてつもなく苦いコーヒー。

これは飲めない。やむを得ず、流しに捨てると、顆粒状のインスタントコーヒーが溶けて、排水溝に流れていった。インスタントだ。

妻に尋ねると、偶々貰ったインスタントコーヒーが一袋あったので、混ぜたというのだ。「いかんかったの?」私はインスタントコーヒーも嫌いではない。しかし、インスタントコーヒーと普通のコーヒー、そして缶コーヒーはそれぞれ違う飲み物と思っている。

多分、妻がそのようなことをしたのは、初めてだろう。そりゃ、インスタントコーヒーが混ざっていれば、いくら何でも気がつくだろう。ね、気付くよね。