善意というお節介

私はあなたののパパじゃない。ママでもない。

私のことを気に掛けてくれる人のなんと少ないことか。誰かが恥をかいていたって、私は知ったことではない。目の前で何かあったら、お節介を承知で忠告するかどうかの判断を迫られることだろう。

誰かが誰かと喧嘩していたとして、いちいち仲裁に入る人は何を考えているのだろう。解決に持ち込む自信があって、そのもめ事がよほどその人に関係あるのだろう。

お節介と、善意の狭間で思い悩む人の気持ちを少し理解する。善意の一言に硬直する危険を顧みる。

横断歩道で子どもが横断するタイミングを見計らっている。賢く、判断力のある少年は、身の安全を保つ術を知っている。その車が早く通りすぎるのを待っている。そのお節介野郎が通り過ぎてから、ゆっくりと渡ろうと思っていると、馬鹿野郎がブレーキを踏む。善意のブレーキを踏む。少年に早く渡れと急かす。

馬鹿野郎。

少年は急いでいない。自分の安全を確保したいだけなのだ。お節介野郎はいらいらする。折角渡らせてあげようとしてブレーキを踏んだのに、何をもたもたしているのだ。早く渡れ、早く、早く。

少年はいたたまれなくなり、やむを得ず、渡り始めようとして、反対車線を通り抜けようとしたもう一台の車にはねられそうになる。あるいは、お節介野郎の脇をすり抜けようとしたバイクと接触しそうになる。

善意の配慮など却って危険なのだ。私は子どもに道を譲らない。クラクションを鳴らして威かすこともない。私自身が安全に通行できると思えば進むし、危険と判断したら停まる。

春の交通安全週間。ちょっと考えた方がよいと思う。