携帯電話なんて要らないよ

私は携帯電話を使っていないんだ。いや、持ってもいない。買ったことも、契約したこともない。

そんなことを書くと、変人扱いされたり、戯言みたいに言われる。しかし、携帯電話を持たない私には、世の中の方が狂っているように見える。

分かんないか。

教育再生会議の偉い先生たちが、盛んに子どもたちが情報機器に毒されていることを指摘して、その弊害に対して警告している。

毎日新聞の対談の中で、義家氏はフィルタリングの重要性を強調する。なんだそれは。大人が勝手に情報機器を子どもに与えておきながら、有害サイトへの接続制限が「親学」の特に重要なテーマだとか言う。

現代の子どもは、大人たちが知らない間に出会い系サイトや残虐な情報に触れられる環境にある。しかし、大半の大人は代表的な出会い系サイトの名前さえ知らない。

などとおっしゃる。私はその大半の大人に含まれていて、出会い系サイトの名前は知らないし、代表的なものがあるということさえ知らない。私は、その様なことを知らないことを恥じることはない。むしろ、知らないのが当然だと思っている。もしかすると私のメールアドレスにも、そういった「代表的な出会い系サイト」からプロモーションのメールが届いているのかも知れないが、私はそういった宣伝メールは開かずに削除する。タイトルや差出人アドレスの雰囲気で、宣伝かどうか見分ける術を身につけている。

しかし、本当なのか。義家氏が言うことは事実なのか?それから、本当に義家氏はこのようなことを発言したのか?

下らないフィルタリングは、かつてあった高校生に対する「三無い運動」に似ている。取りあえず、そのときだけ辻褄を合わせて、将来のための教育の責任を放棄する。

一生フィルタリングが掛かった人生を送るか。しかし、フィルタに掛かる側も、巧妙にフィルタを避ける。結局のところ、いたちごっこでフィルタリングなんぞ意味はない。親の自己満足。つまり、無責任だ。私は、義家氏のことをよく知らないけれども、ここの部分に関して、彼は間違っていると思う。

私は携帯電話を持たずに生活していて、我が家のメンバーの誰一人、持っていない。たまに困ることがあるが、偶だ。携帯電話があると、連絡が付く可能性は高まるが、連絡が付いても結局解決しないことはあるだろう。

これだけ、様々な問題点が指摘される中、親たちが子どもに携帯電話を買い与える心理は、私には理解不能だ。理解不能なりに推測すると、自らの携帯電話依存を子どもに押しつけているように感じられる。

中高生が電車の中で携帯電話をいじくっている。大人たちも携帯をいじくっている。自転車に乗りながら、歩きながら、飯喰いながら、人と話をしながら、電車を待ちながら、電車に乗りながら、パチンコしながら、テレビを観ながら、小便をしながら、携帯をいじりながら、左手は携帯電話をいじっている。

この非生産的な行為は、将来に批判されるだろう。喫煙者と同じ扱いを受けるかも知れない。嫌煙権のように、携帯電話を拒否する権利がそのうちに認められる。すでに病院内では携帯電話はかつてのタバコと同じ扱いを受けている。

私は予告する。そのうちに、私のような携帯電話を使いたくない人が、自らの権利を主張する時代がやって来る。