前髪

子どもが土曜日のドラマを楽しみにしているようだ。熱心に見入っている。
ひとりの気の毒な少女が虐められる。小公女のストーリーを今風に焼き直している。ドロドロとした救いのないエピソードが積み上がっていく。みていてうんざりするのだが、ハッピーエンドになるに決まっている。ドラマを一目見ると、最後に幸せになる役回りが分かる。きっと有名な女優さんなのだろうが、私には区別が付かない。だが、どの子がワルで、どの子が幸せになるか容易に区別できる。前髪に注目だ。前髪をまっすぐに切りそろえている女優さんは悪い役だ。一方で、前髪の両脇を長く伸ばしている女優さんは今は苦しんでいるが結局幸せになる。つまり主役だ。
高校生になる我が家の娘も、前髪の両脇を長く垂らしている。私が勤める職場の学生達も大抵同じように、前髪の一部を長く垂らしている。実習で邪魔になるから長髪の人は髪をゴムで括るように指示したら、みんな一寸ずつ前髪を垂らす。意味がないからピンで留めろと言っても言うことを聞こうとしない。両の耳の前辺りにひとふさ分くらい長い髪を残す。なんて言う髪型なんだろう。
私も髪を伸ばしたことがある。後ろで括ろうとすると、前の方の髪は長さが足りないので上手く括れない。私は伸びきるまでヘアピン数本のお世話になっていた。少女達の髪型は,要するに伸びかけの髪をイメージしているのだろう。
その垂れた髪を邪魔にならないように何とかすることは、少女達にとっては死んでも嫌な何からしいのだ。
ドラマの最後はどうなるか。悪い女は地獄に堕ちる、と来るかと思ったら,娘は二人が仲直りするのではないかという。なるほど。
悪い方の女の前髪も両脇が伸びてくる,と言うのが私の説だ。

変態的な検索

そう言うアクセスログが私の所に残っていて、アクセスログなのでアクセス元のIPも私の手元にある。
(たとえば、「小学生女子公園水遊び全裸画像掲示板」をキーワードに検索したというような)
誰のIPかは分かんない。どういう端末を使ったかということくらいは分かる。当然というか,残念ながら、私の所には希望したような画像や掲示板は無いわけで、その人の犯罪的な行為は未遂に終わったということだ。
見られていると言うことは意識しておいた方が良いと思う。
きわめてパーソナルな端末を使って(例えばiPhoneのような)アクセスした場合にはIPアドレスから個人を特定することが出来るだろう。グーグル様がいちいちあなたのことを通報しないと信じるのは勝手だが、(通報するかも知れないと思う。グーグル様は、今世界中のIPアドレスと検索語の嗜好についてのインデックスを作成しているかも知れない)その検索結果の一覧表のリンクアンカーをクリックしてジャンプした先の誰かが、黙っていてくれるかどうかは場合による。もし、そこに変態的な素材があれば、(警察のおとり捜査でなければ)黙っていてくれるかも知れない。しかし、ジャンプ先が的外れで変態的な素材が見つけられない時、ジャンプ先の管理者から見て変態的な検索結果からジャンプしてきたリファラーは目立つので、何らかの行動を起こす可能性がいくらかあると思った方が良い。
せめて、iPhone画面上のアンカーを直ぐにタップするのではなく、しばらくアンカーに触り続けて、コンテクストメニューを出して、そのリンクをどのように開くかを考えた方が良い。

祐輔が車の宣伝に熱心な件

ユースケが自動車の宣伝をしている。彼は俳優なのだろうか。彼が出ているテレビ番組は普通に見る。先日見た映画にも出ていた。マァマァなのではないか。
大黒堂の頃から知っている。
そんな彼が熱心に車を宣伝している理由は、多分お金のためだ。別にその車を熱烈に気に入っているわけではないと思う。彼が宣伝している車は軽自動車だ。CMは新婚でこれから子どもをもつ積もりで居る夫婦に軽自動車を印象づけようとしているように見える。ユースケが育児を手伝う。夫婦の役割分担のようなものが余りはっきりしていない若夫婦だ。こういう状況ではきっと妻にストレスが掛かるだろうと、私はCMを見ながら余計な心配をする。
車の売りはピラーレスの助手席側だ。開口部がたいへん広く、開放的だ。乗降が楽なように見える。これに赤ん坊を乗せるような宣伝をしている。しかし、この車は大丈夫だろうか。側面衝突や天井の強度などは十分なのだろうか。家族で乗るには少々心配だ。余りお勧めできないような印象を受ける。それでもユースケは毎回熱心にその車を進めてくれると言うことはやはりお金が目当てなのだろうと思う。ユースケが結婚してこどもが出来たときに、きっとその車に赤ん坊を乗せたりしないと思う。

モンテカルロ市街戦

92年のモンテカルロのレースが、未だに引き合いに出されることに対し私は違和感を持つ。私はそのレースを観ていないと思う。つまらなくて途中で居眠りしていたのかも知れない。独走していたナイジェルが残り僅かでホイールトラブルでピットに入り、セナの逆転を許した。圧倒的な戦闘力の差がありながら、結局ナイジェルは二位に甘んじたレース。
決してセナのベストレースではないだろう。狭くて抜けずに数珠繋ぎというのはモンテカルロのレースを詰まらなくする状況だ。むしろ、ナイジェルのドライビングが意外と紳士的である証左かもしれない。
セナのモンテカルロなら84年トールマンで雨の中を追い上げか、88年の独走に終始し、ローズ出口でクラッシュしたレースではないか。
私の印象に残っているモンテカルロ市街地で最もエキサイティングなパッシングシーンは、91年、アレジがミラボープロストのインに入った周回だ。昔のことは知らない。ジルがどのようなドライビングだったか、私は写真で見ただけだ。

変な帰り道

一昨日のことだ。
仕事を切り上げ、バイクにまたがり家路を急いでいた。目の前の信号が赤に変わった。信号待ちの後に発進しようとすると、信号を無視した歩行者が私の前を遮る。右折した途端に自転車が私の鼻先を遮って道を斜め横断していった。何だか危ないなぁと言う雰囲気は、家に帰り着くまで続いた。様々な障害が私の前に躍り出てきた。私は次に起こりそうな何かを予測しつつ、ずっと身構えながらライディングした。路側から飛び出してきたトラックが、私の目の前のバンにぶつかりそうになり、バンは突然大きく車線を変えた。ジョガーやスクーターや帰宅途中のサラリーマンや、猫やハト、ありとあらゆる何かが、私の行く手を遮ろうとする。
こういう日もたまにある。ずっと身構えつつ、ブレーキを握りしめながら運転。ようやく片側3車線のバイパスに入り、行く手が開けた。開けた行く手に赤いテールランプ。特徴的な丸い光が4つ並んでいる。スカイラインだが、近づくとGTRであることが分かった。円形に見えたテールランプは実はLEDを円形に配置している。少し離れてみるとそれぞれのLEDがつながって、円形の光に見えるわけだ。
GTRは無骨である。流麗ではない。なぜならGTRはスカイラインだから。GTRは流麗であってはならぬ。
純白のGTRはすぐに信号待ちの列に呑み込まれ、私の背後に消えた。私がその車を無骨と感じたのは、家まで後数百メートルに近づいた最後から2つ目の交差点の赤信号で、シルバーメタリックのNSXを見かけたからだ。バブルの時代にデザインされたこの車は,今になってみると実に美しい。NSXを見て、私はGTRが美しくないと気付いた。
変な一日だった。

過給器付きエンジン

低燃費の技術として、過給装置はどうなんだろう。
ハイブリッドによる省燃費技術の肝は、高負荷時のモーターによるアシストと、エネルギーの回生システムの組み合わせだ。逃れようのない弱点として、仕組みが複雑なこと。大きく重いバッテリを積むこと。巡航では省燃費にならないこと。そして、装置そのものの環境負荷
過給エンジンの場合、過給装置そのものは比較的コンパクトである。また、過給圧により燃焼室に導入する混合気量をコントロールすることでエンジンの排気量と圧縮比を事実上可変させることが可能である。過給システムは吸入と排気の両方をコントロールすることで様々な状況に対応し,常に最適な燃焼効率を目指すという意味で、技術的には興味深いのではないか。
ずいぶん昔に流行った技術である。私の認識も1988年のRA168Eで止まってしまっている。このエンジンについて、開発者の後藤治は「究極の高効率エンジン」と表現している。150リッターのガソリンで300キロのレースを走りきるというレギュレーションのもとで燃費が大きな開発テーマとなった。F1解剖講座(ISBN4-544-04037-X)によると、過給圧と出力・燃費の関係をみると、RA169Eは過給圧が高いほど(ルール上2.5バール)出力、燃費ともに向上するというのだ(106ページ、グラフ14)。その理由について後藤は「過給圧の低下につれてほとんど比例する形で出力も下がるのに対し、各部の摩擦などエンジンの機会損失は余り変わりませんから、エンジン全体としての機械効率が低くなってしまうことに主な理由があります。」と述べている。
二十年の時を経て、様々な材料技術やコントロール技術は遙かに向上しているに違いない。
エンジンを機械効率の面で突き詰めていくと、過給装置は効率を上げるための手段として有効であろう。それ以外のファクター、つまり自動車の原動機としての運用方法の問題を解決する手段として、エネルギー回生の簡便なデバイスの追加は有効となるだろう。

三方向矢印

通勤路の帰り道、最後のところで片側三車線の国道のバイパスを右折する。
帰宅前の最後の難所がその交差点だ。私はバイパスを直進してきて、交差点に近づいたら一番右側の車線に寄る。信号機は赤点灯で、主信号機の下に3つの矢印信号がある。大抵は直進と左折矢印が点灯している。交差点は4車線となり、私は右折ウインカーを点滅させて最も右よりの右折車線に入り、停止線手前に停車し、信号が変わるのを待つ。相当待たされる。
信号待ちそのものが、かなりスリリングである。ライダーは自分の左側を車がすり抜けていくのを好まない。私はブレーキペダルに足を乗せ、左足でバイクを支えている。直進車が運転を誤ると、私の左足を轢いていくかも知れない。少々落ち着かない気分である。
やがて、主信号機が黄色に変わり、同時に矢印信号が消える。私はローギアに踏み込んで構える。主信号機が赤に変わり同時に右折矢印信号が点灯する。私は発進し、交差点を右に横切って家に向かう片側一車線のバイパスに交差する道に入る。ここまで来れば自宅まで1分以内だ。
簡単そうに思われるかも知れないが、この信号を右折する度に私は勇気を試される。
もう一度おさらいするが、主信号が黄色になって直進・左折矢印信号が消えたら、私は交差点を横切る準備に入る。やがて主信号が赤になり右折矢印信号が点灯したら、私は交差点を横切らなくてはならない。対抗直進車が走ってくるのが見える。その運転手が見ている信号機は間違いなく赤で、直進矢印信号も消えているから、運転手は交差点に入らず、停止線で止まる筈である。しかし、時に直進する(これは信号無視という行為に該当する)運転手が居ることを私は知っている。関西圏では独特な信号の読みかえが罷り通っている。黄色は進め、赤は加速。変わりかけた信号機に待ったを掛けるような形で、信号無視する運転が容認されるケースが多い。つか、暢気に黄色信号で停止すると、追突されるか、「モタモタするな」と怒鳴られることがある。私は対抗直進車の運転手が停車してくれることを念じつつ、右折を開始する。ごく普通の交差点なら、このようなことはない。対抗直進車を見て、自分が安全と判断してから右折すればよい。三方向矢印の交差点で右折信号を待つ身は複雑だ。対向直進車が途切れ、今右折するのは大変安全だと思っても、右折矢印が出ていなければ信号無視ということになる。いっぽうで、右折矢印が出ていれば、これは危ないなぁと思いながらも交差点に突っ込まなくてはならない。
今日は大丈夫だった。明日は知らない。とにかく、とっても恐い。